北朝1代 光厳天皇陵 陵名=山国陵
(ヤマクニノミササギ゙)
陵の形=円丘 皇居=----
父=後伏見天皇 母=藤原寧子
在位年数=3年(1331〜1333年) 年齢=52歳(1313〜1364年)
所在地=京都府桑田郡京北町大字井戸小字丸山 常照皇寺内

北朝2代 光明天皇陵 陵名=大光明陵
(ダイコウミョウジノミササギ゙)
陵の形=円丘・空堀 皇居=----
父=後伏見天皇 母=藤原寧子
皇妃=三条氏
在位年数=13年(1336〜1348年) 年齢=60歳(1321〜1380年)
在位期間の年号は 建武・暦応・康永・貞和 の時代
所在地=京都市伏見区桃山町泰長老
2006.06.09(金)入梅の日、桓武天皇、明治天皇の御陵参拝と同時に参拝した。
桓武・明治天皇の御陵境内は非常に大きかったが、この御陵、街中の小さな御陵。

2006.6.9 撮影

光明・崇光天皇合祀

北朝3代 崇光天皇陵 陵名=大光明陵
(ダイコウミョウジノミササギ゙)
陵の形=円丘・空堀 皇居=----
父=光厳天皇 母=藤原秀子
皇妃=庭田資子
在位年数=4年(1348〜1351年) 年齢=65歳(1334〜1398年)
在位期間の年号=貞和・観応
所在地=京都市伏見区桃山町泰長老
2006.06.09(金)入梅の日、桓武天皇、明治天皇の御陵参拝と同時に参拝した。
桓武・明治天皇の御陵境内は非常に大きかったが、この御陵、街中の小さな御陵。

2006.6.9

光明・崇光天皇合祀


北朝4代 後光厳天皇陵 陵名=深草北陵
(フカクサノキタノミササギ゙)
陵の形=方形堂 皇居=----
父=光厳天皇 母=藤原秀子
在位年数=20年(1352〜1371年) 年齢=37歳(1338〜1374年)
所在地=京都市伏見区深草坊町
20007.9.7(金)残暑厳しい一日、後深草天皇陵を訪ねた。
下の写真の通り「後深草」「伏見」「後伏見」「後光厳」「後円融」「後小松」「称光」「後土御門」「後柏原」「後奈良」「正親」「後陽成」の天皇名が列記されていた。
この時代には火葬が定着していたのだろう、合同陵になっている。

南朝降伏により足利尊氏・義詮(ヨシアキラ)らが打ち立てた政治体制は1352年には早くも揺らぎ、後村上天皇は光厳・光明・崇光の三上皇と直人廃太子ともども吉野へ還幸したため、京都は天皇が存在しない事態が現出した。
この年、光厳上皇の皇子である弥仁親王を擁立して親王宣下もないまま15歳で即位し、北朝を再興する事になる。

2007.9.7 撮影

2007.9.7 撮影



北朝5代 後円融天皇陵 陵名=深草北陵
(フカクサノキタノミササギ゙)
陵の形=方形堂 皇居=----
父=後光厳天皇 母=紀仲子
在位年数=12年(1371〜1382年) 年齢=36歳(1358〜1393年)
所在地=京都市伏見区深草坊町
20007.9.7(金)残暑厳しい一日、後深草天皇陵を訪ねた。
下の写真の通り「後深草」「伏見」「後伏見」「後光厳」「後円融」「後小松」「称光」「後土御門」「後柏原」「後奈良」「正親」「後陽成」の天皇名が列記されていた。
この時代には火葬が定着していたのだろう、合同陵になっている。

幕府がようやく基盤を強化する中での南北朝末期の天皇。
1392年に両朝の合一が実現する。

2007.9.7 撮影

2007.9.7 撮影