第36代 孝徳天皇陵 陵名=大阪磯長陵
(オオサカノシナガノミササギ)
陵の形=円丘 皇居=難波長柄豊碕宮
父=茅渟王 母=吉備姫王
在位年数=10年(645〜654年) 年齢=59歳(596〜654年)
所在地=大阪府南河内郡太子町山田
参拝年月

2004.10.7、大阪、太子町にある敏達・用明・推古・孝徳天皇陵を訪ねた。
すぐそばには、叡福寺の聖徳太子廟があり、約1万歩2時間の適度なハイキングが出来た。
2005.11.19、OWUのウォーキングで再度訪ねた。

孝徳天皇は35代皇極天皇の弟軽皇子、天智天皇の叔父に当たる。大化の改新により天皇となった。

2004.10.7
2005.11.19
2005.11.19、撮影

2004.10.7、撮影
2010.9.24
2014.1.9
 
2014.1.9 撮影 
 

第37代 斉明天皇陵 陵名=越智崗上陵
(オチノオカノエノミササギ)
陵の形=円丘 皇居=飛鳥板蓋・飛鳥川原・後飛鳥岡本宮
父=茅渟王 母=吉備姫王
在位年数=7年(655〜661年) 年齢=68歳(594〜661年)
所在地=奈良県高市郡高取町車木
斉明天皇は舒明天皇に嫁して後、天智(中大兄皇子)・間人皇女・天武天皇を生んだ。
舒明天皇の崩御にともない、翌年即位して皇極天皇となった。
皇極4年6月、乙巳の変(イッシノヘン)により皇位を弟の孝徳天皇に譲った。その後孝徳天皇の崩御で翌年(655年)斉明天皇となった。

2004.7.27、240段の石段の上にある斉明天皇陵

2004.7.27、斉明天皇陵
明日香村の牽牛子塚古墳が斉明天皇の真陵か! (2010.9.10 朝日新聞) そのすぐ下に越塚御門古墳を発見!(2010.12.09)
2010.12.12、真の斉明天皇陵といわれる牽牛子塚古墳を参拝した。
そのすぐ下には今般発見された腰塚御門古墳が。これは斉明天皇の皇子中大兄皇子(後の天智天皇)の皇女大田皇女の墓と思われる。
所在地=奈良県高市郡明日香村字越小字塚御門194番地

真の斉明天皇陵といわれる牽牛子塚古墳

大田皇女の墓と思われる越塚御門古墳

第38代 天智天皇陵 陵名=山科陵
(ヤマシナノミササギ)
陵の形=八角形 皇居=近江大津宮
父=舒明天皇 母=宝皇女(皇極・斉明天皇)
在位年数=4年(668〜671年) 年齢=46歳(626〜671年)
所在地=京都市山科区御陵上御廟野町
天智天皇とは大化の改新で中臣連鎌足とともに活躍した中大兄皇子のこと。
女性関係では実の妹で孝徳天皇の妃(間人皇女)と怪しげな仲になり、大海人皇子(天武天皇)の妃・額田王を自分の寵妃・鏡姫王と交換に貰い受ける。

この頃の額田王の万葉歌「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守りは見ずや 君が袖振る」は有名だ。

大津に遷都し、律令制度に取り組み、水時計を発明している。
「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」=天智天皇

2004.12.16、京都山科・疎水そばの天智天皇陵を訪ねた。


2004.12.16、撮影

2004.12.16、撮影

2004.12.16、撮影

写真右側は疎水、左が天智天皇陵

鎌足公像 談山神社 

第39代 弘文天皇陵 陵名=長等山前陵
(ナガラノヤマサキノミササギ)
陵の形=円丘・空堀 皇居=近江大津宮
父=天智天皇 母=伊賀采女宅子(イガノウネメヤカコツコノイラツメ)
在位年数=8ヶ月(671〜672年) 年齢=25歳(648〜672年)
所在地=滋賀県大津市御陵町
参拝年月

2004.12.16、大津市の皇子山総合運動公園そば、大津市庁裏手の弘文天皇陵を訪ねた。
弘文天皇は天智天皇の崩御後近江朝廷で実験を握り、8ケ月皇位にあった。

2013.11.20、にしき会で疎水から小関越えで大津へ歩いたとき大津市役所の裏の弘文天皇陵に立ち寄った。

2004.12.16 
2004.12.16、撮影

2004.12.16、撮影

2004.12.16、撮影
2013.11.20 
第40代 天武天皇陵 陵名=檜隈大内陵(ヒノクマノオオウチノミササギ)
野口王墓古墳(ノグチオウハカコフン)
陵の形=八角形 皇居=飛鳥浄御見原宮
(アスカキヨミハラミヤ)
父=舒明天皇 母=宝皇女(斉明天皇)
在位年数=14年(673〜686年) 年齢=--歳(--〜686年)
所在地=奈良県高市郡明日香村大字野口
2004.7.27、明日香村の天武天皇陵を訪ねた。
天智天皇の弟(4歳年長とも)であり、名を大海人皇子という。実父は高向玄理(タカムクノクロマロ)と言われ、生来恵まれた素質の持ち主で武徳にすぐれ、天文、占星の術をよくしたとされる。

天武天皇の時代に「天皇」の称号と「日本」という国号が作られた。

2012.10.24 朝日新聞夕刊によると「持統天皇と共に合葬されているこの陵、形が不明確なため今まで円形とされていたが宮内庁は今般八角形だと公表した」と。
参拝年月 
2004.7.27、天武・持統合葬陵

2004.7.27、天武・持統合葬陵
2004.7.27
2013.10.2

2004.3.9、朝日新聞
古代最大の内乱、壬申の乱(672年)に勝利して即位した天武天皇(大海人皇子・天智天皇の弟)の「飛鳥浄御見原宮」(692〜694)の正殿と見られる大型建物跡と石敷き広場が、奈良県明日香村の飛鳥宮跡で出土したと8日県立橿原考古学研究所が発表した。

飛鳥時代に四つの宮が置かれた飛鳥京跡では、これまで半世紀近くの調査で宮の周囲の堀跡や南門などが見つかっているが、中枢が発掘されたのは初めて。同研究所は、建物跡の規模や石敷きの精巧さから「天武天皇の皇居がこの地にあったことを裏付ける発見」と話している。
(2004.3.9朝日新聞)

古墳復元図 
 
墳丘角の裾部分
 
八角形の角に合わせて加工された石
 2012.10.24 朝日新聞夕刊によると「持統天皇と共に合葬されているこの陵、形が不明確なため今まで円形とされていたが宮内庁は今般八角形だと公表した」。
 
参拝年月
2004.5.6、撮影

2004.5.6、撮影
2004.5.6、ダイヤモンドトレールといわれる二上山から金剛山までの45Kmの内の、二上山から葛城山までの約25Kmを歩いた。

その際、二上山雄岳に祭られている大津皇子の御陵に立ち寄った。

大津皇子は天武天皇の第三皇子で、天武天皇の崩御(686年)の際、謀反を企てるも事はすぐさま露見し、磐余の池で死罪に処せられる。その遺体をこの地に葬ったという。
2004.5.6
2010.3.7