第46代 孝謙天皇稜 在位年数=10年(749〜758年)
第48代 称徳天皇陵 在位年数=8年(764〜770年)
父=聖武天皇 母=藤原安宿媛(光明子・光明皇后)
皇居=平城宮(ヘイジョウキュウ) 年齢=53歳(718〜770年)
佐紀高塚古墳 古墳所在地=奈良県奈良市山陵町
陵名=高野陵
(タカノノミササギ)
陵の形=前方後円・堀


父は45代聖武天皇、母は藤原安宿媛(光明子・光明皇后)。
46代では「孝謙天皇」、48代では「称徳天皇」として藤原の武智仲麻呂と僧道鏡とを操って天下を動かしたといわれる女帝。
孝謙天皇時代はいとこの仲麻呂と政治と性事を動かし、仲麻呂を追放した後は称徳天皇として僧道鏡と性事に溺れた。
子のない女帝は後継者に悩み、道鏡を次期天皇とまで考えるが・・・。

所在地へは近鉄西大寺駅から徒歩約10分。


2004.3.21、孝謙天皇=称徳天皇陵

2004.3.21、宮内庁の表札
 
2022.1.7 撮影

2022.1.7 撮影 
第47代 淳仁天皇稜 陵名=淡路陵
(アワジノミササギ)
陵の形=山形・堀 皇居=保良宮・平城宮
父=舎人親王(追尊崇道尽恭皇帝) 母=当麻山背
在位年数=7年(758〜764年) 年齢=33歳(733〜765年)
所在地=兵庫県三原郡南淡町賀集字岡ノ前

2008.4.18、夫婦で四国遍路に車で廻った。
本四架橋が20年経ったとかで4月から6月までETC搭載車には割引が適用される。
土日を含む3日間なら普通車13000円で吹田から四国へ渡り四国の高速道が乗り放題。
これはいい!とお遍路に周りその途中淡路島の淳仁天皇陵に立ち寄った。

御陵は京都の天皇陵に比べると整備度合いは少し劣った。

2008.4.18、撮影

2008.4.18、撮影


第49代 光仁天皇稜 陵名=田原東陵
(タハラノヒガシノミササギ)
陵の形=円丘・空堀 皇居=平城宮
父=施基親王(追尊春日宮天皇) 母=紀橡姫
在位年数=12年(770〜781年) 年齢=73歳(709〜781年)
所在地=奈良県奈良市日笠町


2004.3.25、もう一歩足を延ばせば山添村という、奈良市日笠町にある光仁天皇陵を訪ねた。
すぐそばに古事記の編者の「太安万侶」の墓があり、また、父の「春日宮天皇陵」(田原西陵)が田原春野町にある。

 参拝年月日
2004.3.25、宮内庁の表札

2004.3.25、光仁天皇陵
 2004.3.25
 2014.6.15
太安萬侶(おおのやすまろ)の墓
 
 

2004.3.25、春日宮天皇陵

2004.3.25、春日宮天皇陵

春日宮天皇陵、周囲は茶畑

第50代 桓武天皇稜 陵名=柏原陵
(カシワバラノミササギ)
陵の形=円丘 皇居=平城宮・長岡宮・平安宮
父=光仁天皇 母=高野新笠
皇后=藤原乙牟漏 夫人=藤原旅子(贈皇太后)
在位年数=26年(781〜806年) 年齢=70歳(737〜806年)
在位時年号=天応・延暦
所在地=京都市伏見区桃山町永井久太郎

2006.6.9(金)近畿地方の入梅の日、桓武天皇陵を思い立ち車を走らせた。最寄り駅はJR藤森駅または近鉄丹波橋駅。
すぐそばには伏見桃山城がある。
長い長い参道を行くと陵にたどり着くがこの陵は秀吉の築いた伏見城の城下町の一部であり、真陵は明治天皇の御陵の背後にあるという説がある。
ともあれ、大きな御陵で写真も遠くからしか撮影できなかった。

2008.10.8、寿大学で伏見の酒ウオークの際再度の参拝。

2010.8.25 の朝日新聞朝刊に 
「陛下は01年、翌年のサッカーW杯共催を控えた韓国について、“桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています”と語った。」
「その11年前にも日本を訪れた盧泰愚大統領に、すでに血縁関係を含む韓国とのゆかりについて話していたことが、当時の大統領通訳らの証言から浮かび上がった」 とあった。
参拝年月日
長い長い参道

2006.06.09
2006.6.9
2008.10.8
2010.2.22
2006.06.09

桓武天皇陵
2010.3.15
崇道天皇稜 陵名=八嶋陵
(ヤシマノミササギ)
父=光仁天皇 母=高野新笠
所在地=奈良市八島町

2008.2.19(火) 寿大学から北山之辺の道を歩いたとき、当天皇陵があった。

781年、兄・桓武天皇の即位と同時に光仁天皇の勧めによって還俗し、立太子。
だが785年、造長岡宮使 藤原種継暗殺事件に連座して廃され、無実を訴えるため絶食して淡路国に配流の途中、河内国高瀬橋付近で憤死した。


「嶋田神社」の直ぐ西に、奈良朝の最後で第49代光仁天皇の第2皇子早良親王(さわらしんのう)の墓「崇道天皇八嶋稜」が在る。
早良親王は、「ならまち」のはずれ南東にある「崇道天皇社」に祀られているが、785年(延暦4年)藤原種継暗殺事件に連座し、皇太子を剥奪され、
長岡京の乙訓寺へ幽閉の後10日余り断食し、淡路へ流罪が決まって流される途中、恨みを飲んで淀川の辺りで餓死した。
が、死にのぞんで9つの石を投げ、石の落ちた所に葬って欲しい遺言したら、9つのうち8つの石が八嶋の地で見つかったので、
800年(延暦19年)崇道天皇と追号し、ここ「崇道天皇八嶋稜」に葬られている。