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第100代 | 後小松天皇陵 | 陵名=深草北陵 (フカクサノキタノミササギ) |
陵の形=方形堂 | 皇居=福原宮・平安宮 |
父=後円融天皇 | 母=日野西資子 |
在位年数=31年(1382〜1412年) | 年齢=57歳(1377〜1443年) |
所在地=京都市伏見区深草坊町 (灰塚=京都市東山区今熊野泉山町 泉湧寺雲竜院内 |
20007.9.7(金)残暑厳しい一日、後深草天皇陵を訪ねた。 下の写真の通り「後深草」「伏見」「後伏見」「後光厳」「後円融」「後小松」「称光」「後土御門」「後柏原」「後奈良」「正親」「後陽成」の天皇名が列記されていた。 この時代には火葬が定着していたのだろう、合同陵になっている。 後小松天皇は時の最高実力者左大臣義満の補佐を受け6歳で即位した。 即位後10年にして南北朝の合一がなり、1392年南朝の後亀山天皇から三種の神器を受け取った。 |
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![]() 2007.9.7 撮影 |
![]() 2007.9.7 撮影 |
![]() 後小松天皇の皇子 宗純王の墓 ここは新田辺の一休寺にあり。 |
第101代 | 称光天皇陵 | 陵名=深草北陵 (フカクサノキタノミササギ) |
陵の形=方形堂 | 皇居=平安宮 |
父=後小松天皇 | 母=日野西資子 |
在位年数=17年(1412〜1428年) | 年齢=28歳(1401〜1428年) |
所在地=京都市伏見区深草坊町 |
20007.9.7(金)残暑厳しい一日、後深草天皇陵を訪ねた。 下の写真の通り「後深草」「伏見」「後伏見」「後光厳」「後円融」「後小松」「称光」「後土御門」「後柏原」「後奈良」「正親」「後陽成」の天皇名が列記されていた。 この時代には火葬が定着していたのだろう、合同陵になっている。 称光天皇は生来病弱だったこともあり、後小松天皇の院生に隠れて治世中目だった実績はない。28歳で崩御。 |
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![]() 2007.9.7 撮影 |
![]() 2007.9.7 撮影 |
第102代 | 後花園天皇陵 | 陵名=後山国陵 (ノチノヤマノクニノミササギ) |
陵の形=宝篋印塔 | 皇居=平安宮 |
父=後崇光印 | 母=源幸子 |
在位年数=37年(1428〜1464年) | 年齢=52歳(1419〜1470年) |
所在地=京都府北桑田郡京北町大字井戸小字丸山 |
第103代 | 後土御門天皇陵 | 陵名=深草北陵 (フカクサノキタノミササギ) |
陵の形=方形堂 | 皇居=平安宮 |
父=後花園天皇 | 母=藤原信子 |
在位年数=37年(1464〜1500年) | 年齢=59歳(1442〜1500年) |
所在地=京都市伏見区深草坊町 |
20007.9.7(金)残暑厳しい一日、後深草天皇陵を訪ねた。 下の写真の通り「後深草」「伏見」「後伏見」「後光厳」「後円融」「後小松」「称光」「後土御門」「後柏原」「後奈良」「正親」「後陽成」の天皇名が列記されていた。 この時代には火葬が定着していたのだろう、合同陵になっている。 後土御門天皇の在位中で最大の出来事は応仁の乱(1467〜1477)である。 この大乱は室町幕府の末期、京都を中心に前後11年にわたって繰り広げられた。 さらに幕府の失政、政治腐敗が進行し、土一揆や徳政一揆が続発するようになると、いよいよ幕府の政治的基盤は揺らいでいく。 |
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![]() 2007.9.7 撮影 |
![]() 2007.9.7 撮影 |
第104代 | 後柏原天皇陵 | 陵名=深草北陵 (フカクサノキタノミササギ) |
陵の形=方形堂 | 皇居=平安宮 |
父=後土御門天皇 | 母=源朝子 |
在位年数=27年(1500〜1526年) | 年齢=63歳(1464〜1526年) |
所在地=京都市伏見区深草坊町 |
20007.9.7(金)残暑厳しい一日、後深草天皇陵を訪ねた。 下の写真の通り「後深草」「伏見」「後伏見」「後光厳」「後円融」「後小松」「称光」「後土御門」「後柏原」「後奈良」「正親」「後陽成」の天皇名が列記されていた。 この時代には火葬が定着していたのだろう、合同陵になっている。 後柏原天皇は1500年に践祚しているも、応仁の乱の後遺症はなはだしく、朝廷の経済は逼迫して即位の礼をとりおこなう費用を捻出できず践祚後22年目にしてようやく行われた。 |
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![]() 2007.9.7 撮影 |
![]() 2007.9.7 撮影 |
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