第81代 安徳天皇陵 陵名=阿弥陀寺陵
(アミダジノミササギ)
陵の形=円丘 皇居=福原宮・平安宮
父=高倉天皇 母=平徳子(建礼門院)
在位年数=6年(1180〜1185年) 年齢=8歳(1178〜1185年)
所在地=山口県下関市阿弥陀寺町
平家物語でおなじみの、1185年(文治元年)3月24日、壇ノ浦の戦いで平家滅亡に際し8歳の安徳天皇は清盛の妻二位尼時子に抱かれて海中に身を投げる。三種の神器の一つ宝剣も海に没した。
このとき、建礼門院(元、平清盛の姫)の髪が敵の熊手に架かって引き上げられその後、寂光院で一族の冥福を祈りながら波乱の一生を終える。

ここへ、台風18号が大暴れの2004.9.7〜9日にかけて単独訪ねた。

2004.9.8、撮影

2004.9.8、撮影
 
安徳天皇陵隣の赤間神社

安徳天皇と共に入水した平家の名もなきひとの墓

第82代 後鳥羽天皇陵 陵名=大原陵
(オオハラノミササギ)
陵の形=十三重塔 皇居=平安宮
(ヘイアンノミヤ)
父=高倉天皇 母=藤原殖子
在位年数=16年(1183〜1198年) 年齢=60歳(1180〜1239年)
所在地=京都市左京区大原勝林印町
(火葬塚=島根県隠岐郡海士町大字海士)

後鳥羽上皇は1221年(承久3年)時政の子北條義時追討の院宣を発し倒幕に踏み切った。これが「承久の乱」である。結果は完敗で隠岐の島に流された。

天皇家の紋章は十六葉の菊であるが、これは後鳥羽天皇が菊を愛していつしか家紋になったと伝えられる。

 2013.11.5 大原三千院・勝林院・寂光院等を散策中、行き当たった。

後鳥羽天皇陵 十三重の塔

第83代 土御門天皇陵 陵名=金原陵
(カネガハラノミササギ)
陵の形=八角丘・空堀 皇居=平安宮
(ヘイアンノミヤ)
父=後鳥羽天皇 母=源在子
在位年数=13年(1198〜1210年) 年齢=37歳(1195〜1231年)
所在地=京都府長岡京市金ケ原金原寺
(火葬塚=徳島県鳴門市大麻町)

この天皇、後鳥羽天皇の第1皇子。4歳で即位するも政治は後鳥羽上皇の院政。
1221年の「承久の乱」の敗北で土佐に流された。

2004.11.29、茨木の継体天皇陵と当陵を訪ねた。周囲は田畑だが、住宅開発がドンドン進んでいた。
すぐそばには菅原道真を祀る長岡天満宮がある。


2004.11.29、撮影

2004.11.29、撮影

第84代 順徳天皇陵 陵名=大原陵
(オオハラノミササギ)
陵の形=円丘 皇居=平安宮
(ヘイアンノミヤ)
父=後鳥羽天皇 母=藤原重子
在位年数=12年(1210〜1221年) 年齢=46歳(1197〜1242年)
所在地=京都市左京区大原勝林院町
(火葬塚=新潟県佐渡郡真野町大字真野字林)

「承久の乱」の敗北で佐渡に流された。

2013.11.5 大原三千院・勝林院・寂光院等を散策中、行き当たった。 順徳天皇陵は円墳だが、死角のため見ることが出来なかった。

 

第85代 仲恭天皇陵 陵名=九条陵
(クジョウノミササギ)
陵の形=円丘 皇居=平安宮
(ヘイアンノミヤ)
父=順徳天皇 母=藤原立子(東一条院)
在位年数=4ヶ月(1221〜1221年) 年齢=17歳(1218〜1234年)
所在地=京都市伏見区深草本寺山町

昨日(2004.9.11)彦八ハイクで伏見稲荷から阿弥陀ガ峰〜豊国廟を歩いた際、泉湧寺にいくつかの天皇陵があった。時間の関係で昨日はいけなかったので、本日当天皇陵と共に改めて訪問した。


2004.9.12、撮影

2004.9.12、撮影