第31代 | 用明天皇陵 | 陵名=河内磯長原陵 (コウチノシナガノハラノミササギ) |
陵の形=方丘・空堀 | 皇居=磐余池辺双槻宮 (イワレノイケベノナミツキノミヤ) |
父=欽明天皇 | 母=蘇我堅塩媛 |
皇后=泥部穴穂部皇女(ハシヒトノアナホベノミコ)=母の妹の娘 | |
在位年数=3年(585〜587年) | 年齢=48歳(540〜587年) |
所在地=大阪府南河内郡太子町春日 |
2004.10.7、太子町にある敏達・用明・推古・孝徳天皇陵を訪ねた。 すぐそばの聖徳太子廟、叡福寺から4陵を歩いてちょうど約1万歩。適度なハイキングになった。 2005.11.19、OWUウォーキングで再訪した。 子に厩戸(ウマヤト)、来目(クメ)、殖栗(エクリ)、茨田(マンタ)の4人がいる。 厩戸皇子は豊聡耳聖徳(トヨトミミショウトク)などとも呼ばれた聖徳太子その人。推古天皇の御代に皇太子となった。 用明天皇は仏法を信じ、神道を尊重した。 天皇は疱瘡で崩御することになるが、鞍部多須奈(クラツクリノタスナ)が天皇の病気平癒を祈って出家し、仏像と寺を建立すると申し出た。 推古天皇の御代に完成する法隆寺と薬師如来像はそもそも用明天皇の病気平癒を願って造立されたものとも言われる。 |
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2004.10.7、撮影 |
2004.10.7、撮影、用明天皇陵 |
第32代 | 崇峻天皇陵 | 陵名=倉梯岡陵 (クラハシノオカノミササギ) |
陵の形=円丘 | 皇居=倉梯柴垣宮 |
父=欽明天皇 | 母=蘇我小姉君 |
皇妃=小手子(大伴糠手連の娘) | |
在位年数=6年(587〜592年) | 年齢=?歳(?〜592年) |
所在地=奈良県桜井市倉橋 |
2004.6.28、桜井市倉橋に当陵を訪ねた。多武峰、談山神社の手前にあった。 用明天皇が崩御すると、皇位を狙う物部氏と蘇我氏の熾烈な抗争で、 蘇我馬子は泊瀬部皇子(崇峻天皇)、竹田皇子、厩戸皇子(聖徳太子)等に働きかけ多くの兵力を動員することに成功した。 一時は苦戦を強いられ、厩戸皇子は仏に祈ることを思い立ち、霊木に四天王を刻んで誓いを立てた。 それは戦いに勝利できたならば四天王の像を作り、寺を建立するというものであった。 戦いの末、崇峻天皇が即位し政治の実権は蘇我馬子に握られる。 |
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参拝年月日 | 2015.3.8、撮影 |
2004.6.28、撮影 |
2015/03/08 | ||
2004/06/28 | ||
2012/04/29 |
談山神社の東大門 2004.6.28 |
2015.3.8 工事中の東大門 |
大阪の四天王寺 2005.3.26 |
2015/ 3/ 8 に談山神社を訪ねた時は東大門が改築中だった。 以前の門は老朽したか? |
第33代 | 推古天皇陵 | 陵名=磯長山田陵 (シナガノヤマダノミササギ) |
陵の形=方丘 | 皇居=豊浦宮・小墾田宮 |
父=欽明天皇 | 母=蘇我堅塩媛 |
敏達天皇の皇后広姫の薨去に伴い後添えの皇后となる | |
在位年数=37年(592〜628年) | 年齢=75歳(554〜628年) |
所在地=大阪府南河内郡太子町山田 |
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←2枚の写真は「文久山陵図」 左はその整備前の「荒蕪」図。 右は整備後の「成功」図。 幕末期、勤皇思想の高揚を背景として、歴代天皇陵の大がかりな整備が行われた。 2005.3.4、読売夕刊より |
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2004.10.7、撮影 |
2004.10.7、撮影 |
2005.11.19、 推古天皇陵遠景 |
今一人、蘇我王朝を夢見た蘇我馬子が内政を担当し、3人がお互いを牽制しあいながら大和三山のごとく女帝推古の時代・近代国家へと邁進した。 |
2004.10.7、叡福寺の聖徳太子廟 |
第34代 | 舒明天皇陵 | 陵名=押坂内陵 (オサカノウチノミササギ) |
陵の形=八角形 | 皇居=飛鳥岡本・田中・厩坂・百済宮 |
父=押坂彦人大兄皇子 | 母=糠手姫皇女 |
在位年数=13年(629〜641年) | 年齢=49歳(593〜641年) |
所在地=奈良県桜井市忍坂 |
参拝年月 | ||
2004/06/28 | 桜井市忍坂に舒明天皇陵があった。母・糠手姫皇女の墓も併記されていた。 | |
2012/06/10 | 浪速歩け歩け協会のウオーキングで等彌神社から鳥見山〜外鎌山を歩いたとき押坂で舒明天皇陵に参拝した。 すぐそばには藤原鎌足の正室「鏡女王」のお墓もあった。 |
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2004.6.28、撮影 | 2004.6.28、撮影 |
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2012.6.10、撮影 |
2012.6.10、撮影 |
第35代 | 皇極天皇陵 | 陵名=越智崗上陵 (オチノオカノエノミササギ) |
陵の形=円丘 | 皇居=飛鳥板蓋 |
父=茅渟王 | 母=吉備姫王 |
在位年数=4年(642〜645年) | 年齢=68歳(594〜661年) |
所在地=奈良県高市郡高取町車木 |
皇極天皇は舒明天皇の皇后宝皇女。女帝としては推古に次ぐ2番目の天皇。 皇極天皇の子中大兄皇子と中臣鎌足が多武峰で入鹿暗殺計画の相談をした。決行日は大化元年(645年)6月12日。 14日には皇極天皇の弟軽皇子が即位して孝徳天皇となった。 これが大化の改新。孝徳天皇在位10年、再度斉明天皇として即位された。 |
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頂上まで約240段 |
150段程で太田皇女の墓 |
天武天皇妃太田皇女の墓 |
2004.7.27、頂上に斉明天皇として祀られている。 |
2004.7.27、斉明天皇(皇極天皇)陵 |
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2005/11/14(月)読売新聞 蘇我入鹿邸?出土! |