第11代 垂仁天皇陵 陵名=菅原伏見東陵
(スガワラノフシミノヒガシノミササギ)
陵の形=前方後円・堀 皇居=纏向珠城宮
(マキムクノタマキノミヤ)
父=崇神天皇 母=御間城姫
皇后=狭穂媛、後の皇后=日葉酢媛命
在位年数=99年(前29〜70年) 年齢=139歳(前69〜70年)
古墳所在地=奈良県奈良市尼辻西町
2004.3.16、ポカポカと暖かい春の日、第11代垂仁天皇陵と第20代安康天皇陵を訪れた。
2005.11.1、垂仁天皇陵を再訪した。

垂仁天皇に関わる日本書紀の話として相撲伝説がある。
垂仁天皇7年7月7日の条に大和の当麻蹴速(タギマノケハヤ)と出雲の野見宿禰(ノミノスクネ)を争わせ、出雲の野見宿禰が圧勝したという。これをもって当麻では当地を「相撲発祥の地」としている。が、現代の相撲取りでこのことを知っている人はほとんどいないらしい。

なお、日葉酢媛命皇后は垂仁天皇32年に亡くなったとされるが、その際野見宿禰が殉死の禁止を進言し、人や馬などの姿を模したものを作らせて墳丘に立てた、と日本書紀は伝えており、これが埴輪のルーツとされる。

後の皇后との間に生まれた五十瓊敷入彦命(イニシキイリヒコノミコト)は千口にも及ぶ剣を奉納し、神宮の宝物管理の任を帯びた。その後物部十千根大連がその任に当たり、石上神宮で代々神宝の管理に当たる。
石上神宮は多くの貴重な朝廷の兵器類を納め、中にはスサノオノミコトがヤマタノオロチを切ったとされる十握剣(トツカノツルギ)や有名な七支刀などがある。
参拝年月日
2005.11.1、撮影

2004.3.16、第11代垂仁天皇陵
2004.3.16
2005.11.1
2010.9.2
2014.1.9

2004.3.16、堀に囲まれた全貌。
前の小島は「田島道間守」の墓という。

2004.10.31、石上神宮の七支刀
 2014.12.26
 2015.1.9
2011.8.7 南海箱作駅から俎石山〜大福山〜淡輪駅をウオーキングした際、淡輪駅そばで宇土墓古墳に出会った。
当古墳には垂仁天皇の第2皇子五十瓊敷入彦命(イニシキイリヒコノミコト)が祀られていると言う。

宇土墓古墳

宇土墓古墳

宇土墓古墳

第12代 景行天皇陵 陵名=山辺道上陵
(ヤマノベノミチノエノミササギ)
陵の形=前方後円・堀 皇居=纏向日代宮
(マキムクノヒノシロノミヤ)
父=垂仁天皇 母=日葉酢媛命
皇后=播磨稲日大郎姫、八坂入媛命
在位年数=60年(71〜130年) 年齢=143歳(前13〜130年)
所在地=奈良県天理市渋谷町
参拝年月日
2004.6.22  この天皇、多くの皇后皇妃に恵まれ、80人もの皇子女があったらしい。
そのうちの一人に日本武尊という英雄が登場して征西、東征を繰り広げ全国支配を推進する機運が起きている。
2005.10.4 昨年に続き再度訪ねた。「ご陵」は宮内庁が立派に管理しているが、宮跡は下右の写真の通り・・・。 
2012.12.20 彦八メンバー4人で邪馬台国ウオークの際、参拝。

2004.6.22、撮影

2004.6.22、撮影

2005.10.4、撮影
2004.8.3、羽曳野市白鳥にある日本武尊(景行天皇の皇子)の白鳥陵に行った。
「羽曳野市白鳥」の由来はヤマトタケルノミコトが白鳥に姿を変え、「羽」を「曳く」がごとく飛び去ったという伝説より。

2004.8.3、日本武尊の白鳥陵

2004.8.3、撮影

2004.8.3、撮影

2004.8.3、撮影
2012.4.27 御所市の国見山あたりをハイキングした際、富田というところに「日本武尊白鳥陵」があった。
「白鳥陵?羽曳野で見たことあるぞ?」と不思議がったら、なんと!白鳥陵は三つあるとのこと。
「日本書紀」 によると、日本武尊は能煩野(のぼの)で亡くなった後、白鳥となって飛び立ち、まず大和の琴弾原、次に河内の古市邑(ふるいちむら)(羽曳野市)に舞い降りた後、天高く飛んでいったという。
だから、三重県亀山・大阪の羽曳野そしてここ奈良の御所の三箇所にあるのだ。

 ところで、「古事記」に、ヤマトタケルが地方豪族を平定し弱った体で故郷大和を目指すが、
険しい山を越えることは出来ずに力尽きてなくなる件がある。
その険しさは三度膝がガクガクするほどであり、そこでこの地を「三重」と言うのだという地名の由来を説いている。

 
日本武尊白鳥陵 2012.4.27撮影

 日本武尊白鳥陵 2012.4.27撮影

第13代 成務天皇陵 陵名=狭城盾列池後陵
(サキノタタナミノイケジリノミササギ)
陵の形=前方後円・堀 皇居=志賀高穴穂宮(シガノタカアナホノミヤ)
父=景行天皇 母=八坂入姫命
皇后=弟財郎女(オオタカラノイラツメ)
在位年数=60年(131〜190年) 年齢=107歳(84〜190年)
所在地=奈良県奈良市山陵町

2004.3.21、暖かい日差しの春の一日、平城・成務・孝謙天皇陵を歩いた。
元そごう奈良店現イトーヨーカドー奈良店の駐車場に車を置いて、往復2時間のちょっとしたウォーキングになった。

*成務天皇は景行天皇の皇子で母親は八坂入姫命。
*政治的には、新しく地方を国・郡・県・邑の行政区画としそれぞれの長を定め、国家統一事業の総仕上げを実施したと伝える。

 参拝年月日
2004.3.21、成務天皇陵

2004.3.21、宮内庁の看板
 2004/3/21 
2016/1/8

2004.3.21、堀に囲まれている
 
 
2019.2.10 撮影
 2019/2/10

第14代 仲哀天皇陵 陵名=恵我長野西陵
(エガノナガノノニシノミササギ)
陵の形=前方後円・堀 皇居=
角鹿笥飯宮・穴門豊浦宮・橿日宮
父=日本武尊 母=両道入姫命
皇后=気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)=神功皇后
在位年数=9年(192〜200年) 年齢=52歳(148〜200年)
所在地=大阪府藤井寺市藤井寺4丁目

仲哀天皇の父親は「ヤマトタケル」となっている。
「古事記」によると、12代景行天皇の皇子である「小碓命(オウスノミコト)」が父から熊襲征伐を命じられた。
出発に際し伊勢神宮に参り、叔母のヤマトヒメから衣装と剣を授けられた。
そしてクマソタケルが酒盛りをしている席で懐剣を出してクマソタケルを刺し殺した。
このことで「小碓命」が「ヤマトタケル」と呼ばれるようになった。

仲哀天皇の皇后の神功皇后はこの時期、新羅の国を攻めている。
合わせて高麗、百済の二国も日本の侵攻に恐れをなし服従の意思を表明した。
三韓みな朝貢を約して服従した。
皇后は新羅から帰還し筑紫で後の応神天皇を生んだ。
(参考:神功皇后陵 http://mannpomann.kt.fc2.com/sonotanohaka.htm)

参拝年月日
2004.8.3、撮影

2004.8.3、撮影
2004/8/3
2010/12/19
 2016/1/8
2005.11.1神功皇后陵を訪ねた。
所在地は奈良市山陵町で成務天皇陵のすぐ隣にあった。
夫婦でも亭主の墓は藤井寺に嫁さんの墓は奈良にと死後は別居。
参拝年月 
2005.11.1、撮影

2005.11.1、撮影
 2005/11/1
 2016/1/8

第15代 応神天皇陵 陵名=恵我藻伏崗陵
(エガノモフシノオカノミササギ)
前方後円・堀 皇居=軽島豊明宮
(カルシマノトヨアケノミヤ)
父=仲哀武尊 母=気長足姫命(神功皇后)
皇后=仲姫(仁徳天皇の母)、皇后の姉・妹等が妃
在位年数=41年(270〜310年) 年齢=111歳(200〜310年)
所在地=大阪府羽曳野市誉田6丁目
神武以来の歴代の内で、最も多数の女性を娶ったのは「古事記」で10名、「日本書紀」で8名となっている応神天皇である。
後の仁徳天皇の父親。

応神天皇の時代には、多くの渡来人が来日し、大陸の優れた文物や技術が導入されると共に、農地の耕作がめざましく進んだとされる。
縫女や酒造りの技術者も来日して、日本の社会に技術革新を引き起こした。

2004.8.3、撮影

2004.8.3、撮影

隣に宮内庁の事務所がある。

隣接の応神天皇を祭神とする誉田八幡宮

誉田八幡宮
仲津山陵 応神天皇皇后仲姫命 前方後円・堀
2008.3.2(日)道明寺観梅ウオークと題し、藤井寺から道明寺〜富田林へウオーキングの途中応神天皇陵のすぐそば、近鉄土師ノ里駅の前に応神天皇皇后仲姫命の仲津山陵があった。

2008.3.2、撮影

2008.3.2、撮影