第16代 仁徳天皇陵 陵名=百舌鳥耳原中陵
(モズノミミハラノナカノミササギ)
陵の形=前方後円・三重堀 皇居=難波高津宮
(ナニワタカツノミヤ)
父=応神天皇 母=仲姫命
皇后=磐之媛命
在位年数=87年(313〜399年) 年齢=143歳(257〜399年)
古墳所在地=大阪府堺市大仙町
第12代景行天皇と並んでの長寿143歳?!

陵は我が国最大の前方後円墳、大仙陵古墳と呼ばれる。周囲2718m。徒歩約40分。
たかき屋にのぼりてみれば煙立つ たみのかまどはにぎはひにけり」この歌は13世紀の初めに成立した「新古今和歌集」に収まっている。
そして「仁徳天皇御歌」とある。
かかる歌が読まれるほど、仁徳天皇は民の生活に関心を持ち、宮中でも質素倹約を実践し食物もいたって粗末なものに甘んじた。

皇后との間には、履中・反正・允恭天皇がもうけられた。
参拝年月
2005.5.20、撮影

2005.5.20、撮影
2019.10.11
 2017.5.5 
 2014.5.15
2012.3.7
2010.5.29
2009.12.28
2005.5.20、撮影

2005.5.20、撮影
2009.12.19
2009.12.04
2005.05.20
 
2007.2.17、読売新聞
 
2019/5/14、朝日新聞夕刊 世界遺産へ!!


第17代 履中天皇陵 陵名=百舌鳥耳原南陵
(モズノミミハラノミナミノミササギ)
陵の形=前方後円・堀 皇居=磐世稚桜宮
(イワレサクラノミヤ)
父=仁徳天皇 母=磐之姫命
妃=黒媛(葦田宿禰の娘)
在位年数=6年(400〜405年) 年齢=?歳(?〜405年)
古墳所在地=大阪府堺市石津ケ丘
2005.5.20、仁徳天皇陵の次に当陵を訪ねた。この陵も大きい。
参拝年月
2005.5.20、撮影

2005.5.20、撮影
2019.10.11
2009.12.19 
2005.05.20

2009.12.19、撮影

第18代 反正天皇陵 陵名=百舌鳥耳原北陵
(モズノミミハラノキタノミササギ)
陵の形=前方後円・堀 皇居=丹比柴籬宮
(タジヒノシバガキノミヤ)
父=仁徳天皇 母=磐之姫命
皇夫人=津野媛、皇妃=弟媛(津野媛の妹)
在位年数=5年(406〜410年) 年齢=?歳(?〜410年)
古墳所在地=大阪府堺市北三国ケ丘2丁

漢字文化の伝来の時期については諸説あるようだが、熊本県玉名郡菊水町の江田山古墳出土の太刀銘文や、和歌山県橋本市の隅田八万宮蔵人物画像鏡の銘文から、反正天皇時代と推断できる。
とにかく5世紀が漢字文化の波及期だった。

この陵は表紙の2005.5.8、の読売新聞にある通り治定の再考が望まれている。
2005.5.20、仁徳・履中天皇陵についで訪ねた。
陵のお隣には「方違宮」があり、14代仲哀天皇の皇后「神功皇后御馬繋之松」があった。

参拝年月
2005.5.20、撮影

2005.5.20、撮影
2012.3.7
2009.12.28
2009.12.19
2006.5.7
2005.5.20、撮影

2005.5.20、撮影
2005.05.20

第19代 允恭天皇陵 陵名=恵我長野北陵
(エガノナガノノキタノミササギ)
陵の形=前方後円・堀 皇居=遠飛鳥宮
(トオツアスカノミヤ)
父=仁徳天皇 母=磐之姫命
皇后=忍坂大名形大郎皇女
在位年数=42年(412〜453年) 年齢=?歳(?〜453年)
古墳所在地=大阪府藤井寺市国府1丁目

允恭天皇には忍坂大中姫命皇后との間に木梨軽皇子、名形大娘皇女、境黒彦皇子、穴穂天皇(後の安康天皇)、軽大娘皇女、八釣白彦皇子、大泊瀬幼武天皇(後の雄略天皇)、但馬橘大娘皇女、酒見皇女がもうけられている。
木梨軽皇子と軽大娘皇女は兄妹でありながら、惹かれあい裂かれるという悲恋物語がある。

平成16年8月3日、藤井寺市にある允恭天皇陵を訪ねた。
そばには神武天皇の長子が祀られているという「式内信貴県主神社」があった。


2004.8.3、撮影

2004.8.3、撮影

允恭天皇陵の周りはこんな状態

式内信貴県主神社、神武天皇の長子を祀る

第20代 安康天皇陵 陵名=菅原伏見西陵
(スガワラノフシミノニシノミササギ)
陵の形=方丘・堀 皇居=石上穴穂宮
(イソノカミアナホノミヤ)
父=允恭天皇 母=忍坂大中姫命
皇后=中蒂媛
在位年数=4年(453〜456年) 年齢=56歳(401〜456年)
古墳所在地=奈良県奈良市宝来4丁目

2004.3.16、安康天皇陵と垂仁天皇陵を訪れた。
近鉄尼辻駅から歩いて2〜3分のところに下の写真の道標がある。ここから左へ数分で垂仁天皇陵。
右へ25分で安康天皇陵。


2004.3.16、尼辻駅そばの道標

2004.3.16、撮影

2004.3.16、安康天皇陵