第21代 雄略天皇陵 陵名=丹比高鷲原陵
(タジヒノタカノワシノハラノミササギ)
陵の形=円丘・堀 皇居=泊瀬朝倉宮
(ハツセノアサクラノミヤ)
父=允恭天皇 母=忍坂大中姫命
皇后=幡梭(ハタビ)皇女
在位年数=24年(456〜479年) 年齢=62歳(418〜479年)古事記では124歳
古墳所在地=大阪府羽曳野市島泉8丁目

2004.8.3、羽曳野市の雄略天皇陵を訪ねた。
駐車場はあるにはあるが、街中である為誰でも駐車するから鎖で進入できないようにしてある。
前は細い道路で撮影の為の駐車に困った。
参拝年月日
2004.8.3、撮影

2004.8.3、撮影
2004/08/03
2010/12/19
2004.6.1、紀見峠から金剛山へのダイヤモンドトレールを歩いた際、
金剛山転法輪寺のあたりに、今から約1500年前雄略天皇
が狩をした遺跡という

第22代 清寧天皇陵 陵名=河内坂門原陵
(コウチノサカドノハラノミササギ)
陵の形=前方後円・堀 皇居=磐余甕栗宮
(イワレノミカクリノミヤ)
父=雄略天皇 母=葛城韓媛
皇太夫人=葛城韓媛
在位年数=5年(480〜484年) 年齢=41歳(444〜484年)
古墳所在地=大阪府羽曳野市西浦6丁目


2004.8.3、羽曳野市の清寧天皇陵を訪ねた。
生まれながらにして白髪であった為、「白髪大倭根子命」という。


2004.8.3、撮影

2004.8.3、撮影

第23代 顕宗天皇陵 陵名=傍丘磐坏丘南陵
(カタオカノイワツキノオカノミナミノミササギ)
陵の形=前方後円 皇居=近飛鳥八釣宮
(チカツアスカノヤツリノミヤ)
父=市辺之忍歯王(履中天皇の子) 母=蟻臣ハエ媛
皇后=難波小野王
在位年数=3年(485〜487年) 年齢=38歳(450〜487年)
古墳所在地=奈良県香芝市北今市


2004.7.6、空梅雨と思われる暑い一日、香芝市にある顕宗天皇陵を訪ねた。
市街地にあり、市の開発のために周りを削り取られているような気がした。

清寧天皇は在位5年にして子無くして崩御した。
その後履中天皇の孫に当たる顕宗天皇と仁賢天皇が皇位を譲り合ってなかなか位を踏もうとしなかったため、
両天皇の姉に当たる飯豊青皇女が暫定的に政治を見た時期がある。

こうした見方は記紀共に共有されており、さらに「扶桑略記」や「水鏡」では女帝の即位が積極的に肯定されている。
皇太子妃雅子様悲観することなかれ!


2004.7.6、撮影

2004.7.6、撮影

第24代 仁賢天皇陵 陵名=埴生坂本陵
(ハニュウノサカモトノミササギ)
陵の形=前方後円・堀 皇居=石上広高宮
(イソノカミノヒロタカノミヤ)
父=市辺之忍歯王(履中天皇の皇子) 母=はえ媛(蟻臣の娘)
皇后=春日大娘皇女
在位年数=11年(488〜498年) 年齢=50歳(449〜498年)
古墳所在地=大阪府藤井寺市青山3丁目

2004.8.3、藤井寺市の当陵を訪ねた。
市街地にあり窮屈に感じた。

先代顕宗天皇の兄に当たる。

2004.8.3、撮影

2004.8.3、撮影

第25代 武烈天皇陵 陵名=傍丘磐坏丘北陵
(カタオカノイワツキノオカノキタノミササギ)
陵の形=山形前面堀 皇居=泊瀬列城宮
(ハツセノナミキノミヤ)
父=仁賢天皇 母=春日大娘皇女
皇后=春日娘子
在位年数=9年(498〜506年) 年齢=18歳(489〜506年)
古墳所在地=奈良県香芝市今泉


2004.7.6、空梅雨の一日、顕宗と武烈天皇陵を訪ねた。隣には延喜式の志都美(シズミ)神社があった。

武列天皇は法令に明るく、果断な裁きや処罰を行ったと伝えられている。その反面、残虐な性格の持ち主で、幾多の悪事や虐待を繰り返したとされる。
妊婦の腹を割いて胎児を見ようとしたり、冬に人の生爪を剥いで山芋を掘らせる、人の髪の毛を抜いて木に登らせたうえ、
木を切り倒して楽しむ、人を木に登らせて弓で射るといった暴虐ぶりだった。

 参拝年月日

2004.7.6、撮影 

2004.7.6、撮影 
 2004/07/06
 2017/02/19

2004.7.6、撮影

2004.7.6、撮影 志都美神社

2004.7.6、撮影 志都美神社